僕は九州福岡の出身なので、フードカートと言えばやっぱり福岡市内を流れる那珂川沿いにズラッとならんだ中州の屋台街を思い出す。高校時代は帰宅部仲間でバンド活動をしていて、たまに天神のスタジオへ深夜練習をやりにいくと、必ず通過するのが中州の屋台街だった。僕はドラム担当だった。

中州の屋台は博多豚骨ラーメン(長浜ラーメン)だけではなくて、おでんや焼き鳥、ぎょうざ、洋食などもあった気がするが、僕がいつも行くのは屋台街の入口付近にあって、入りやすくてボッタくられなさそうな安全な店で、高校時代はバイトなんかせずに、勉強ばかりしていたからお小遣いも限られていたので、いつもプレーンな豚骨ラーメンばかり食べていた。博多で「ラーメン」を頼むと必ず豚骨ラーメンが出てくるので、東京に来てから豚骨以外のラーメンがあることを知って驚いたのだが、博多のラーメン屋に行くと、テーブルには真っ赤な紅ショウガと、赤いキャップの部分にある突起をグルグル回転させて中身を擦り出すゴマと、薄いステンレスの調味料入れに入ったホワイトペッパーが必ず載っていて、いつも麺の上にゴマを山盛りにしてラーメンを啜っていたものだ。しかし紅ショウガだけは入れなかった。

僕がコッテリした豚骨ラーメンと紅ショウガの相性の良さに感動するのはハタチを過ぎて東京に来てからのことで、当時の僕はまだ紅ショウガのあの刺激に耐えられなかったのだ。刺激といえば、屋台のある中州という街はとても刺激的な場所で、九州一の繁華街であり色街であり、バンド練習の帰りに天神から博多駅方面に歩いて帰る途中、例の中州に差し掛かると毎回、黒い服を着た客引きのお兄さんたちから「学割あるよー、寄って行かんねー」と誘われていたことを思い出す。いま思えば、学割が効くうちにちゃんと行っておくべきだったなあ。

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長浜ラーメン(CC BY-SA 3.0,Gansonagahamaya.jpg,Commonsenses)

ところで、僕が伝えたかったのは、高校時代に味わった中州の思い出話ではなくて、こんな感じでストリートフードにまつわる原風景を、日本人なら誰しも持っているのではないか、ということだ。「ストリートフード」とか「フードカート」とか横文字にしてしまうと、なんだかカッコ良さげで自分の文化圏からは遠いもののように感じてしまうが、つまり露店であり屋台だよね。昔から僕たちのすぐそばにあった文化だ。脱線するけど「キッチンカー」が「フードカート」と呼ばれるようになったのはここ2~3年の話で、おそらくポートランドの文化が注目され始めてからではないか。僕がガキのころ食べていた「スパゲッティ」も、いつの間にか「パスタ」に変わっていた。これはバブルの時期に「イタめし(イタリアン)」が流行って、そのときから「パスタ」が定着したらしい。

日本の屋台にタイヤが付いて(ヤタイにタイヤ!)移動可能になったのは、おそらく明治から大正にかけてくらいの時期なのではないか。さらに遡って日本で車輪が使われ始めたのは奈良時代とか平安時代あたりが最初だと思うけど、当時は牛に車を引かせる「牛車」で、それに乗ることができる人なんてごく限られた貴族たちだけだった。その後は武士の世界になって、馬と籠の時代になって車輪は忘れ去られるのだが、明治以降やっと車輪が復活する。車輪だけにまた脱線するが、なぜ中世から明治になるまで日本人は車輪を交通手段として取り入れなかったのか?? これには諸説あって、語り出すと誌面が足りなくなるので興味のある人は自分で調べて欲しい。

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江戸の天ぷら屋台(19世紀初頭『近世職人尽絵巻』鍬形蕙斎)
 

日本に屋台が生まれたのは徳川政権が安定して平和な時期が続いた18世紀くらい、町人文化が華咲き始めた江戸中期くらいだと思う。当時の屋台には当然まだ車輪が付いていなかった。寿司とか天ぷらとか蕎麦とか、そういったものが露店で売られていたようだ。元祖ストリートフードであり、ファーストフード。いま都心で天ぷらや蕎麦を出すフードカートや屋台を見たことがないけど、もしあったら絶対に食べてみたいなあ。

いま多くのフードカートは外国の食文化を取り入れたものだけど、逆に日本の古いカルチャーを掘り起こしてみるのも面白いと思う。文化の差異が生まれるところに付加価値が発生するというのは経済学の定石だけど、古くは大航海時代から、植民地でスパイスを安く買い叩いてヨーロッパの自国で高く売るという。これは商売の基本だけど、この同時代の二地点間の文化の差異を「同時代空間的差異」とするならば、ある特定の場所で時代をさかのぼって文化の差異をつくりだす「同地点時間的差異」を活かした商売もあってよいのではないか。

これをストリートフードに当てはめるなら、たとえば江戸の屋台をそのまま現代に復元するのもアリな気がする。でも木造だと燃えやすいし法律に引っかかりそうだから難しいかもなあ、建物の内に造作物として作るのはアリかもなあ。どうしても屋外に設置したい場合はタイヤを付けて「建築」ではなく「モバイルハウス(坂口恭平)」にするか。もしくは、その場で簡単に設営と撤去が可能な仮設物にするか。そういう現実的なこといろいろを考えると、やっぱり「フードカート」という形式が現代には合っているのかなあ。

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高輪の港に並んだ屋台(1841~1842年『高輪二十六夜待遊興之図』歌川広重)
  • Author
    Naohiro Kiyota
    Columnist
    福岡県生まれ。一橋大学経済学部卒業後、戦車等を扱う重機メーカーに勤務。退社後、武蔵野美術大学大学院基礎デザイン科修士課程修了、MFA(Master of Fine Arts)。メディアサーフコミュニケーションズ株式会社を経て独立。ライター、エディター、デザインディレクター、株式会社博報堂『恋する芸術と科学ラボ』メンバーとして経験を積む。そろそろクリエイティブディレクターと一言で名乗っていいのかもしれない。3.11後「電源コンセントを抜くと終わってしまう文化」に疑問を持ち、復興支援活動を5年。後に多摩川を遡って檜原村(東京都)に移住、村と都心で働く二拠点スタイルを実践中。コワーキングスペース「みどり荘」の本『We Work HERE 東京のあたらしい働き方』編集長。川のように生きたい。
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